世界名画模写

未来画廊では、油絵を一人でも多くの方にご満足 いただけるよう 人物・静物・風景画を豊富に取り揃え、 ご提供いたしております。 ご新築・ご開業・ご結婚などの贈り物としても、 大変喜ばれております。 お越しいただき、素敵な絵画との出逢いをお約束 いたします。 心よりお待ち致しております

世界の名画模写


一作家が、パリ・オルセー及びルーブル美術館、
国内美術館等の名作に接し、
その感動をキャンバスに再現したいとの思いで、
製作された迫真の作品を一堂に集めました。
油絵の深奥を極めたこの模写作品を、
見かけだけのコピーとの違いを大切にされる方にお奨めです。

世界の名画・画家名

世界の名画模写・作品

ゴッホ ひまわり  F3.jpg
ゴッホ

ゴッホ 夜のカフェテラス  F6.jpg
ゴッホ

セザンヌ  セントヴィクトワール山 P6.jpg
セザンヌ

アンリルソー 熱帯の森を散歩する女 F4.jpg
ルソー

モネ 水連  F6.jpg
モネ

モジリアーニ  黒いネクタイの女  F6.jpg
モディリアーニ

ゴッホ オーヴェルオワーズ教会 F4.jpg
ゴッホ

ルノアール帽子の娘(模写)  F4.jpg
ルノアール

モーリス・ド・ヴラマンク 丘の家 F4.jpg
ヴラマンク

ユトリロ  F4.jpg
ユトリロ

マリーローランサン  ギターを持つ少女  F3.jpg
ローランサン

モーリス・ド・ヴラマンク 野の花 F3.jpg
ブラマンク

ゴッホ 星月夜(糸杉と村)   F4.jpg
ゴッホ

レンブラント ダナエ F6.jpg
レンブラント

ドガ バレーエトワール F6.jpg
ドガ

モネ パラソル.jpg
モネ

モネ 水連  F6.jpg
モネ

レオナルド・ダ・ヴィンチ  モナリザ(ラ・ジョコンド)  F6.jpg
ダヴィンチ

モディリアーニ おさげ髪の少女 P8.jpg
モディリアーニ

オディロン・ルドン アラブの楽人 F3.jpg
ルドン

ルノアール 薔薇図 F3.jpg
ルノアール

ルノアール 少女 F3.jpg
ルノアール

セザンヌ 果物 F3.jpg
セザンヌ

ジョルジュ・ルオー  人物のいる風景  F4.jpg
ルオー

フェルメール 赤い帽子の女 F3.jpg
フェルメール

ルノアール  足を組む裸婦と帽子  F4.jpg
ルノアール

ルノアール  イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢  F6.jpg
ルノアール

模写承ります
お気入りの名画再現します。写真・ポスター等をご用意下さい。

このコーナーに関するお問い合わせ、ご購入に関するご連絡は、
お電話 03-3367-1231    メール mirai_g@lapis.plala.or.jp にて承ります。


フィンセント・ファン・ゴッホ Vincent van Gogh  

1853-1890 | オランダ | 後期印象派

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後期印象派の中でも最も名の知られたオランダ出身の画家。絵の具の質感を顕著に感じさせる力強く荒々しい、やや長めの筆触や、絵の具本来の色を多用した強烈な色彩による対象描写で数多くの作品を制作。特に画家の内面をそのまま反映したかのような迫真性の高い独自の表現は野獣派(フォーヴィスム)やドイツ表現主義など後世の画家に大きな影響を与えた。生前は全く作品が売れなかったものの、死後急速に評価を高め、現在では後期印象派を代表する画家のひとりとして重要視されている。画家の特徴的な作風は印象派の画家たちやアドルフ・モンティセリの影響が大きい。1853年、ベルギー国境近郊のオランダ北ブラバンド地方フロート・ツンデルトで牧師一家の子供として生まれる。1857年、弟テオ誕生。青年期は画廊見習いや炭鉱地帯の伝導師(牧師)、教師としてオランダ、ロンドン、パリなどで就労するも長続きしない。1873年、就労の為に訪れていたロンドンでの下宿先の娘アーシュラ・ロイヤーに心を奪われ求婚するも拒絶され、激しい失意に見舞われる。1880年、ケスムスの炭鉱夫の家に寄宿する中、画家になる決意を弟テオに手紙で知らせる。同年、ブリュッセルで画家ラッパルトと知り合い遠近法と解剖学を学ぶ。1882年、娼婦シーン(クリスティーヌ)と知り合い同棲するも親族に知られ、弟テオを除く家族の信頼を失う。1886年、アカデミーに入るも伝統的な権威主義に反感を抱くが、ルーベンスの明瞭な色彩に魅了される。同年3月、パリのモンマルトルに住んでいた弟テオの家に向かう。パリでアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックやエミール・ベルナール、ポール・ゴーギャン(ゴーガン)、カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャック、エドガー・ドガ、ギヨマンなど当時、先端をゆく画家らと親しくなり多大な影響を受け、パレット内の色彩も急速に明るさを増す。また当時の流行のひとつであった浮世絵など日本趣味にも触れ、日本に憧れを抱くようになる。1888年、パリ生活に疲れていたゴッホは、ロートレックの勧めもあって強い太陽の光を求め友人の画家らを誘い南仏アルルへと向かうが、応じたのはゴーギャンのみであった。南仏アルルでゴーギャンと共に意欲的に制作活動をおこなうが、対象を見て描く画家と、写実的描写を否定するゴーギャンの間で討論となり、二人の間の緊張度が増す。同年12月23日夜、画家が自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届け、翌日入院。二人の共同生活は二ヶ月足らずで終了となる。耳切事件からすぐに退院するも翌1889年、画家自身の希望によりサン・レミのカトリック精神病院に入院。比較的自由な生活を送り、数多くの作品を制作(画家の代表作の多くもこの時期に生まれる)。また色調と筆触に変化が見られるようになる。1890年、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移住するも、同年7月27日に(おそらく胸部に)ピストルを撃ち自殺を図る。29日駆けつけた弟テオに見守られながら死去、享年37歳。弟テオも翌年に死去。
※耳切り事件については近年、ゴッホとゴーギャンが馴染みの娼婦を巡って口論となり、激昂したゴーギャンが剃刀を手に取りゴッホの耳を切り落としたとする新説が唱えられている。

 

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作品名  オーヴェルオワーズ教会
サイズ  F4


 

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作品名  ひまわり
サイズ  F3




 

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作品名  星月夜
サイズ  F4


 

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作品名  夜のカフェテラス
サイズ  F6

アメデオ・モディリアーニ Amadeo Modigliani  

1884-1920 | イタリア | エコール・ド・パリ

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20世紀を代表するエコール・ド・パリの画家。エジプトやアフリカなどの原始美術と故郷イタリアに息衝くシエナ派など古典芸術の厳格性を融合させ、縦に引き伸ばされたかのような面長の顔とアーモンド形の瞳による独自の人物画を確立。類稀な造形性と抒情的で画家自身と同調するかのような独特な人物表現は以降の現代芸術に多大な影響を与えた。友人・知人、恋人などを描いた肖像画や裸婦像、少年・少女など子供を描いた作品がとりわけ有名であるが、数点の風景画も残されている。また画家は驚異的な集中力で作品を一気に仕上げる(早描き)ことが知られており、モデルを前に4時間足らずで作品を仕上げたとの逸話も残されている。1884年、イタリアのリヴォルノでスペイン系ユダヤ人の一家の息子として生まれる。一家は画家が生まれる直前に破産していたものの、裕福な叔父の援助により一家は経済的に安定していた。幼い頃から絵画に興味を抱いていたモディリアーニは生まれつき病弱体質で、1900年に肺結核により病気療養の為、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、ローマなど気候の良い土地を巡る旅に出る。この芸術都市で触れたシエナ派など古典作品群から多大な芸術的影響を受ける。1901年、故郷リヴォルノを離れフィレンツェの裸体美術学校で学び始め、1903年から3年間、ヴェネツィアに滞在。同地でマッキア派や後期印象派、グスタフ・クリムト、エドヴァルド・ムンク、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど象徴主義や分離主義などの作品にも強く惹かれる。1906年、羨望の地パリへと向かう。当初は、当時若い画家が数多く居住していたモンマルトルで活動するが、1909年からモンパルナスに拠点を移した。この頃、ジャン・コクトー、シャイム・スーティン、モイズ・キスリングなどエコール・ド・パリを代表する芸術家・画家たちや、パブロ・ピカソ、ディエゴ・リベラ、モーリス・ユトリロ、藤田嗣治など同時代を代表する画家と交友するも、キュビスムなど時代の先端をゆく絵画様式とは一線を画す独自の様式であったことや、自堕落な生活・態度であった為にパリの美術界で孤立し、長い間、異端として扱われた。1909年から1914年まで彫刻家ブランクーシの影響を受け、彫刻家として精力的に活動するも、重労働であることから病弱であったモディリアーニは体力的な面で彫刻活動を断念する。また1914年にベアトリス・ヘースティングスと知り合い、その後2年間、恋愛関係となる。1915年から本格的に絵画の制作活動をおこなう。画家(芸術家)としては依然として異端扱いされるものの、この頃に画家の独創的な肖像様式を確立。1917年、画学生であったジャンヌ・エビュテルヌと出会い、深い恋愛関係に落ちる。晩年期(1919年頃)にようやく画家として評価され始めたものの、結核性髄膜炎により36歳で夭折。恋人ジャンヌ・エビュテルヌも数日後に画家の後を追うように自殺。なお画家の作品は死後、急速に値段が高騰し、10年経過した1930年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレでの回顧展で、ようやく20世紀を代表する画家としての正当な評価を受けることになった。

 

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作品名  黒いネクタイの女
サイズ  F6

 

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作品名  おさげ髪の少女
サイズ  P8







クロード・モネ Claude Monet  

1840-1926 | フランス | 印象派

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印象派の中で最も名が知られた同派を代表する巨匠のひとり。自然の中で輝く外光の美しさに強く惹かれ、その探求と表現に生涯を捧げる。混合させない絵具での筆触分割(色彩分割とも呼ばれ、細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法)によって自然界の光(太陽光)と大気との密接な関係性や、水面に反射する光の推移、気候・天候・時間など外的条件によって様々に変化してゆく自然的要素を巧みに表現した作品を手がける。戸外風景を描いた作品が主要であるが、人物画や室内画、静物画なども残すほか、「積みわら」「ポプラ樹」「ルーアン大聖堂」「睡蓮」など画家の代表作となる連作的作品も多く残されている。1840年、パリのラフィット通り45番地で食品雑貨商の家に次男として生まれ、経済的状況からセーヌ河口の港町ル・アヴールに転居。10代中頃には絵の才能を見せ始め、1858年、18歳で対岸で活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンから自然の中に潜む美を学び、同氏と共に屋外での制作活動を始める。またオランダ出身の風景画家ヨハン・バルトルト・ヨンキントの作品からも影響を受ける。翌年、本格的に絵画を学ぶためにパリへ出て自由画塾アカデミー・シュイスに入り、この時、同画塾でカミーユ・ピサロと出会う。1860年に兵役で入隊するも病にかかり帰家、1862年に入ったシャルル・グレールの画塾で、ルノワール、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールらバティニョール派(後の印象派)と呼ばれる画家たちと知り合い、共にフォンテーヌブローの森で作品を制作。1863年エドゥアール・マネがサロンに出品した『草上の昼食』、1865年に出品した『オランピア』に示される伝統破壊的な絵画表現に注目、同氏と交友をもつようになるほか、同年この4人で同画塾を去る。この頃、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベの作品にも感化を受け、度々サロンに作品を出品しサロンから賞賛と拒否の評価を繰り返すも、依然として経済的困窮が続く。1870年最初の妻カミーユ・ドンシューと結婚、一ヵ月後に普仏戦争が勃発したためにロンドンへと亡命、同地でターナーやジョン・コンスタブルらの作品から空気遠近法や色彩の表現技法を研究し、翌年オランダを経て帰国。1872年、代表作『印象 -日の出-』を制作。1874年に開かれた第一回印象派展でモネが出典した『印象 -日の出-』を、批評家ルイ・ルロワがル・シャリヴァリ誌で嘲笑する記事を寄稿し掲載された為に、バティニョール派らを始めとした賛同者たちは≪印象派≫と呼称されるようになる(印象派の名称はここに由来する)。1879年最初の妻カミーユが死去。1870年代は未だに困窮が続いていたも、1880年代で展示会が大成功するなど経済的に豊かになる。以降、ロンドンを数回訪れながら精力的に作品制作と展示会(彫刻家ロダンとの合同展も開催している)を開催し、1892年アリス・オシュデと再婚。1910年代初頭に白内障を患い、一時的に作品制作の意欲が著しく衰えるも手術で回復、最晩年には最後の大作『睡蓮』の大壁画を手がけた。1883年から借家で住み始め、1890年には買い取ったジュヴェルニーの自宅兼アトリエで1926年12月6日に死去。享年86歳。

 

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作品名  パラソルをさす女
サイズ  F4

 

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作品名  睡蓮
サイズ  F6

 

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作品名  睡蓮
サイズ  SM




モーリス・ド・ヴラマンク Maurice de Vlaminck  

1876-1958 | フランス | フォーヴィスム(野獣派)

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1876 フランスのパリの音楽教師(バイオリニストでベルギー人)の家庭に生まれる。父親の友人の画家から油絵のえほどきをうける。
18歳でジェルメーヌと結婚。翌年、長女が生まれる。生活のために自転車競技を行うが、軍隊に入営。3年間の兵役で軍楽隊でコントラバスの奏者に。独学で絵を学ぶ
1900 アンドレ・ドランと出会う。シャトーに共同でひとつのアトリエを借り、昼は絵を描き、夜はヴァイオリンの演奏を行い生活
1901 ファン・ゴッホの回顧展に感銘を受けて画家を志す
1902 友人のセルナダとの共著「風に吹かれる種子」を発表
1904 フォーヴのひとつのグループを形成。一点の作品をグループ展で発表。
1905 マティスがドランとヴラマンクの絵を見に来て、展覧会への出品をすすめる。アンデパンダン展に出品。マティスが彼らの出品作品が掲示された部屋を「フォーブの部屋」と名づける
1906 前年より画壇の地位を確立したセザンヌの作品を見て強く刺激を受ける
1907 画商ボラールにより、最初の個展を開催。ヴラマンクにとりフォーヴィズムの総決算となる
1908 セザンヌの影響を受け、強固な構成を試みる
1912 画商ボラールと契約を結ぶ
1914 国民軍への召集
1918 第一次世界大戦終戦後、ドランやマティスから離れ、フォービズムからも遠ざかる。戦争がヴラマンクにとり、過去の歴史、友人などに対し信頼に足りるものではなくなり、自身のみを信じるという意志を頑なに助長した
1919 二度目の個展
1920 作家論が出版される。写実性の強い画風に変化
1922 ベルネイム・ジュンで個展。グワッシュ40点、油彩10点を出品し、初日に9点の油絵と半数のグワッシュが売約。個展終了までに完売。決定的な成功に。
毎年、サロン・ドートンヌとサロン・デ・チュイルリーに出品
1925 ベルネイム・ジュンで全傑作展開催。ノルマンディ平原の小さな村ラ・トゥルイエールへ転居
1933 グループ展とパレ・デ・ポーザルで回顧展
1936 NYカーネギー研究所での展覧会
1937 パリ万博で個人展
1947 シャトゥー派回顧展が成功。現代絵画創始者のひとりと認められる。
1954 ヴェネツッア・ビエンナーレに出品。
1956 シャンパルティエ画廊で80歳を記念する回顧展(約200点の作品)
1958 ジュネーブのアテネ美術館で回顧展。同年死去。

 

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作品名  野の花
サイズ  F3

 

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作品名  丘の家
サイズ  F4

パブロ ピカソ Pablo Picasso  

1881-1973 | スペイン | キュビズム

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1881 スペイン南部マラガ生まれ。バルセロナに転居後、美術学校に入学。
1897 マドリードのサロンで入選
1900 パリを訪問。
1901-04 青の時代と呼ばれる時代。友人が自殺。パリとバルセロナを行き来する。グレコの影響を受ける
1904 パリのモンマルトルに住む。マックス・ジャコブや詩人のアポリルールらと交遊。バラ色の時代と呼ばれる時(ピンクやグレーの色調で道化師などを描く)
1907 アフリカ黒人彫刻に興味を持ち、形態の分析を探求。代表作のひとつ「アヴィ二ョンの娘たち」を制作。
1908~ ジョルジュ・ブラックらとキュピズムに取り組む(通常、1907-11までを分析的キュビズム、1912-14までを総合的キュビズムの時代と呼ぶ)
1917 ジャン・コクトーらとローマ、ナポリなどを訪問。ローマでは『パラード』の衣裳や舞台装置、幕などのデザインを担当。キュピズムと並行して、古典主義的な婦人像なども描き始める。
1918 オルガと結婚
1925 シュルレアリスムに接近
1927~マリー・テレーズと恋愛関係に。その後、モデルとして肖像画などを描く
1930 ボワジュールの城を購入し、彫刻やミノタウロスをテーマとした版画を制作
1935 妻オルガと別居。マリー・テレーズ出産
1936 スペイン市民戦争
1937 パリ万博スペイン館で「ゲルニカ」発表
1943 女流画家フランソワーズと出会う。3年後には一緒に生活を始める。
1949~ フランソワーズ出産。4年後には別れる。
1954 ジャックリーヌと生活を始める。7年後に正式に結婚。
1962 ニューヨーク近代美術館で「ピカソ生誕80周年」展
1963 以前より知っていたクロムランク兄弟が、家の近くに工房を建て、それから版画制作に没頭する
1968 「347シリーズ」の版画制作
1970-71 「156シリーズ」の版画制作
1973 ムージャンで死去

 




マルク シャガール Marc Chagall  

1887-1985 | ロシア|エコール・ド・パリ

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1887 ロシアのヴィテブスクでユダヤ商人の家庭に生まれる。帝室美術奨励学校で学ぶ。後の妻となるべラと出会う。
1910 パリのモンパルナスへ。ロベール・ドローネら前衛芸術家と親交
1914 ギョーム・アポリネールが「超自然的」としてベルリンで紹介。ベルリンのデア・シュトゥルム画廊で初めての個展
1914 ロシアのヴィテブスクに帰郷。1922まで滞在
1915 べラと結婚
1917 ロシア革命
1919 革命政府より美術行政の要職を任され、ヴィテブスクに美術学校を創設し校長に。翌年、イデオロギー闘争で辞職
1920 モスクワでユダヤ芸術劇場のための装飾などを制作
1922  リトアニアでの個展。ロシアを去る。版画技法を学ぶ。
1923 パリへ。画商ヴォラールからの注文で「死せる魂」「寓話」「聖書」などの挿画のための版画を制作
1924 初の回顧展
1926 ニューヨークで個展
この頃より、シュールレアリストたちから支持されはじめる
1933 バーセル美術館で回顧展
1937 フランス国籍取得
1939 カーネギー賞受賞
1941 渡米
1944 妻のべラ死去
1946 NY近代美術館で個展
1947 フランスに戻る。パリ近代美術館で回顧展
1948 ヴェネチッア・ビエンナーレの版画部門で受賞
1950 南仏ヴァンスに転居。フェルナン・ムルロ工房で版画制作。以後、版画作品はすべて同工房で制作
1958 ステンド・グラスの制作を開始
1976 日本でシャガール展開催。
1985 ヴァンスで死去

 

ポール・セザンヌ Paul Cézanne  

1839-1906 | フランス | 後期印象派

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近代絵画の父と呼ばれ、20世紀絵画の扉を開いた後期印象派を代表する画家。多角的な視点の採用、対象の内面に迫る心情性に富んだ形体・色彩の表現、単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる、独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作。また「印象派より永続的で堅牢なものを」と、印象派的な過度の分析法に反対の意を表し、造形的な画面の構成に力を注いだ。長く正当な評価を得ることはできなかったものの、自然などのモティーフを前にしたときの感覚を重要視した表現は、数多く生まれた世紀末~20世紀初頭の絵画様式、特にパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックによって提唱・創設されたキュビスムの形成に多大な影響を与えた。なお画家の個性的な表現手法は19世紀フランスの画家アドルフ・モンティセリから受けた影響が色濃く反映している。セザンヌは静物画や風景画を好み、これらの画題で幾多の作品を残しているが、肖像画や自画像、水浴図に代表されるモニュメンタルな大構図の作品でも優れた作品を手がけている。1839年、当時結婚はしていなかったものの、南仏の小さな町エクス=アン=プロヴァンス(通称エクス)で帽子の販売業を営んでいた裕福な父ルイ=オーギュスト・セザンヌと母アンヌ=エリザベート・オノリーヌの間に長男として生まれる。両親が正式に結婚(1844年)した後の1848年、父ルイ=オーギュスト・セザンヌが知人と共にセザンヌ・カバソール銀行を設立、事業は成功しセザンヌ家はさらに裕福になる。少年時代(1852-58年)にエミール・ゾラと知り合い、詩作や絵画の創作に熱中しながら友情を育む。1858年エミール・ゾラがパリへと移住。1859年から父の希望で法律を学ぶためエクスの大学に入学するが、その就学は必要最小限にとどめ、本格的な絵画を学び始める。次第に画家への想いが強くなり、1861年、法律の勉強を放棄しパリへと旅立つ(父との対立が本格化する)。同年、アカデミー・シュイスに入り、カミーユ・ピサロやギヨマンらと出会う。中でもセザンヌにとって最も良い理解者となったピサロとの出会いは画家にとっても重要な転機となった。その後、一時的にエクスへと帰郷するも翌年、パリへ再来、この年にカフェ・ゲルボワでクロード・モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら後に初期印象派を形成する主要な画家たちと知り合う。またこの頃、色彩の魔術師とも呼ばれたロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワと、写実主義の大画家ギュスターヴ・クールベを崇拝に近いほど賞賛し、精力的に研究をおこなう。その後、エドゥアール・マネやエドガー・ドガなどと知り合い、当時の印象派の画家たちと行動を共にしていたものの、近代都市と変貌していたパリの雰囲気に馴染むことができず、故郷エクスとパリを往復する生活を送りながら第1回、第3回の印象派展に参加するが、作品はほとんど理解されなかった。1772年、後に妻となるオルタンスとの間に息子ポール誕生。1886年、数年前から不仲となっていたエミール・ゾラが、主人公の失敗した画家のモデルにセザンヌを反映したと思われる小説≪制作≫を出版、二人の間に決定的な亀裂が生じる。また同年、父ルイ=オーギュスト・セザンヌが死去。父が残した莫大な遺産により生涯の経済的不安から開放される。1880年代以降はエクスに戻り、プロヴァンスの風景画、人物画、静物画、水浴画など、後にセザンヌを代表する作品を制作することに専念。1890年代後半から次第に評価を得るようになり、晩年期には高額で絵画が取引されるようになったものの、糖尿病など健康状態が悪化。精神状態も不安定になり、対人関係が困難となった。1906年、偉大なる巨匠としての地位は確立されていたものの、エクスのアパートで肺炎により死去。

 

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作品名  セントヴィクトワール山
サイズ  P6

 

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作品名  果物
サイズ  F3

アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー Henri Julien Félix Rousseau  

1844 - 1910|フランス|素朴派

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印象派時代に活躍した素朴派を代表するフランス人画家。魔術的とも比喩される夢想的で異国的な密林の情景や、都会の風景やその中に配した人物像などを描き、画業の当初は批評家たちの嘲笑の的となっていたものの、晩年には高評価へと一変し、現在では同時代を代表する画家として広く知られている。その詩情的で想像力に溢れた独自の画風は20世紀最大の画家のひとりパブロ・ピカソやイタリア出身の詩人ギヨーム・アポリネール(ポーランド人)らが高く評価していたほか、新印象派の創始者ジョルジュ・スーラや後期印象派を代表する画家ポール・ゴーギャンなど同時代の一部の画家たちからも注目されていた。素朴派の確立は19世紀末、アンデパンダン展(無審査出品制の美術展覧会)出品作家に対して、評論家がそう称したことに始まり、西欧の伝統的な美術知識の乏しさゆえの素朴な作風を意味している。1844年フランス南西部ブルターニュ地方の小都市ラヴェルに生まれ、長年パリで税関吏として働きながら、1880年頃には絵画を描き始める。1893年、税関吏を退職し画業に専念する。1886年からアンデパンダン展に初出展し、当初は新聞や雑誌から稚拙だと酷評されたが、ほぼ毎年(1899年及び1900年以外)同展へと作品を出品し、1905年頃から次第に評価が高まっていった。1908年、ルソーを高く評価していたピカソが画家の芸術性を称えるために夜会を催す。最晩年頃は評価を高めた画家であったが、1910年パリで孤独のうちに死去。享年66歳。

 

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作品名  熱帯の森を散歩する女
サイズ  F4


ピエール=オーギュスト・ルノワール Pierre-Augustê Renoir  

1841-1919 | フランス | 印象派

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印象派の中でも特に名が知られた同派を代表する巨匠。しばしば女性的と直喩される流動的かつ奔放な筆勢や、明瞭で多様な色彩、豊潤で官能的な裸婦の表現、揺らめく木漏れ日による人物や風景への効果を研究した斑点状の描写など特徴的な表現で数多くの作品を制作。ルノワールは労働者階級の生まれである為、社会的な向上心が強かったと推測されており、パトロンや愛好家の獲得に長け、彼らの好みや意向に沿い自身の様式的特色を残しながらも巧みに合わせていったが、根本は田舎的で素朴な姿容や風情が好みであったと考えられる。また長いスランプ期や枯渇時代を経て、リュウマチ性関節炎など病によって劇的なほど様式を変化させたことや、画家の生涯における貪欲な女性関係も注目すべき点のひとつである。作品は風景画や家族・親族・自画像・友人・画家・画商・裸婦など身近な人物を始め、パトロンや芸術愛好家、特定のモデルなど人物画が多いが、風俗画や神話画、静物画なども手がけており幅広いジャンルを描いている。1841年、リモージュで仕立て屋を営む労働者階級一家の7人中6番目の子供として生まれる。1844年にパリへと移り、1854年から四年間、陶器の絵付師として奉公に出て絵の経験を積む。1860年、模倣画家として認められルーヴル美術館でルーベンス、ブーシェ、フラゴナールなど宮廷絵画(主に18世紀ロココ様式)の研究と模写をおこなう。1861年にシャルル・グレールの画塾に登録、翌年には国立美術学校へ入り絵画を学ぶ。またグレールの画塾ではクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールらバティニョール派(後の印象派)と呼ばれる画家たちと知り合い(モネの友人であったカミーユ・ピサロとも知り合う)共にフォンテーヌブローの森で作品を制作するほか、数年後に崇拝していた写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベとも出会う。以後ロマン主義の巨匠ドラクロワの作品の豊かな色彩に影響を受けながら、サロンに作品を出典しだすも、入選と落選を繰り返す。1868年、カフェ・ゲルボワで印象派の先駆者エドゥアール・マネやエドガー・ドガと出会う。1870年普仏戦争(独仏戦争)に召集されるボルドーの第10騎兵部隊に配属。1874年、第一回印象派展に参加。以後、第二回、第三回には参加するも、第四回と第七回以降は不参加。1880年、光の効果を重んじ形状の正確性を失った純粋な印象主義に疑問を抱き始め、翌年にイタリアへ旅行しルネサンスの巨匠ラファエロなどの作品に触れるほか、1884年にはカミーユ・コローの研究のためラ・ロシェーヌへ旅行。この1880年代は古典主義を探求し作風を変化させる。また1885年に息子ピエールの誕生し、その5年後の1890年に『田舎のダンス(1883年制作)』のモデルを務めたアリーヌ・シャリゴと結婚、家庭を築く。1888年頃にリュウマチ性関節炎や顔面神経痛に襲われる。この病によって1880年代の古典主義的な表現から、豊満な裸婦画に代表される暖色を用いた豊潤な晩年期の様式へと再変する。晩年期の1890年代からは体調がさらに悪化し、1911年には車椅子生活を余儀なくされるも、痛みに耐えながら最後まで精力的に作品制作は続けた。享年78歳。

 

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作品名  帽子の娘
サイズ  F4

 

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作品名  薔薇図
サイズ  F3

 

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作品名  少女
サイズ  F3

 

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作品名  足を組む裸婦と帽子
サイズ  F4

 

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作品名  イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢
サイズ  F6

モーリス・ユトリロ Maurice Utrillo  

1883―1955 | フランス | エコール・ド・パリ

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1883 フランス・パリのモンマルトルの文筆家、モデルの家庭に生まれる。母の不在で、中学では飲酒癖のため退学。その後、酒乱治療のため精神病院に入院。その治療の一環として絵画を描きはじめる
1907 パリの街頭を描きはじめる
1909 サロンに初出品
1910 画商リボートと専属契約
1912-14 白の時代と呼ばれる頃。13に初めての個展
1916 アルコール中毒の解毒治療のための入退院が続く。個展は成功
1922 ポール・ギョーム画廊での個展。これ以後、写真や絵葉書をもとに制作することが中心になり、自己の模倣的役割を続ける。
1955 パリにて死去

私生児としてパリのモンマルトルに生まれる。母親は、ルノアールやドガやロートレックのモデルをつとめ、のちに自ら女流画家としてたったシュザンヌ・バラドンSuzanne Valadon(1865―1938)。1891年、スペイン人のミゲル・ユトリロがこの父なし子を戸籍上の養子とし、以来ユトリロの姓を名のる。しかし、絵を描き始めたときの画中の署名はモーリス・バラドンであり、モーリス・ユトリロと署名するようになっても、バラドンを表す「V」の字を最後に添えた。

ユトリロは幼くして酒に魅入られ、飲酒の悪癖にはまり込む。銀行などに勤めても長続きせず、1901年アルコール中毒による衰弱のため療養所に送り込まれた。翌年、医者の忠告に従い、母親は飲酒から関心をそらせようとユトリロにむりやり絵筆をとらせた。以来、彼はパリ郊外やモンマルトルの街並みを独自の画法で描くことになる。03年から07年までは「モンマニー時代」とよばれ、当時彼の住んでいたパリ郊外のモンマニーの風景などが、厚塗りによる粗く暗い調子で一気呵成(かせい)に描かれた。そこには印象派の影響が認められる。やがて「白の時代」が到来する。彼は白い建物に熱中し、絵の具に漆食(しっくい)を混入して壁の感触を表現した。家々の薄汚いむき出しの壁、陰鬱(いんうつ)な場末の街、人けのない通り、よろい戸が閉ざされたままのホテル、そして教会堂などが、絵はがきや写真や記憶によりながらも、詩情豊かに描き出される。07年(ないし10年)ごろから14年ごろまで続いたこの「白の時代」こそユトリロの創造力が絶頂に達した時代で、飲酒癖は相変わらずだったが、彼の傑作のほとんどすべてがこの時期に生まれている。

その後に続くのが「色彩の時代」であり、光沢のある色彩が用いられ、緑が強調される。しかし、それはまた衰退の時代の始まりでもあった。とりわけ晩年の25年間、健康は持ち直し、名誉を得、1935年にはコレクターの未亡人と結婚、生活も安定したが、その作品にはかつての緊張や生気はみられず、彼はもはや創造するためではなく、生産するための画家となった。ダクスに没。

 

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作品名  モンスニ通り
サイズ   F4


マリー・ローランサン Marie Laurencin  

1883-1956 | フランス|エコール・ド・パリ

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1883 パリで私生児として生まれる。事実上の父は代議士であり、経済的不自由はなかった。画塾に入学。ブラックと出会う。
1906 モンマルトルの共同アトリエに出入りするようになる。
キュビズムの理論的な指導者アポリネールと恋愛関係に。1912に別れる。キュビズム的な作品を制作。
1910 独自の色彩の画風が現れる。1
1914 ドイツ人貴族と結婚。新婚旅行中に世界大戦に。旅先のスペインでそのまま亡命
1922 アルコール中毒となった夫と離婚してパリに戻る。彼女の画風が上流階級に受け、それから肖像画の注文が相次ぐ。
1924 バレエ「雌鹿」の衣裳と舞台美術の仕事を行い、バレエのヒットともに名声を得る。
1956 パリにて死去

 

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作品名  ギターを持つ少女
サイズ  F3


レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Harmensz, van Rijn  

1606-1669 | オランダ | オランダ絵画黄金期

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17世紀のオランダ絵画黄金期に活躍した最大の巨匠。スポットライトを当てたような強い光による明瞭な明暗対比や、赤褐色又は緑褐色を基調とした輝くような色彩、場面状況を明確に伝達する劇的な運動性、登場人物に示される深い精神性を帯びた表情などが大きな特徴。1606年7月15日、レイデンで中流階級の家柄の9番目の子息として生まれる。修行時代はアムステルダムでピーテル・ラストマンに師事し、同氏の下でバロック様式を学んだ後レイデンで独立、同地で最初の門弟となるヘリット・ダウなどの有能な弟子を育てる。1632年にアムステルダムへと移住し、代表作『テュルプ博士の解剖学講義』で自身の名声を確立。1634年に裕福な美術商の娘サスキアと結婚(1642年に死別)、以後、大規模な工房を構え弟子たちと共に数多くの肖像画、宗教画、神話画など様々なジャンルの作品を手がける。この為、一時は1000点以上の作品がレンブラント作とされるも、現在はレンブラント・リサーチ・プロジェクトなどを始めとしたレンブラント作品の研究や調査が進み、その多くが弟子の手が加わる作品、又は画面全てが弟子の手によるもので、署名のみレンブラントが記した作品であることが判明している。1642年に手がけた『フランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画』、通称『夜警』で登場人物も平等に描かなかった為、依頼主たちから大変な不評を招くも、物語性の高い作品自体は高評価を得た。この一件で注文が激減し、破産など画家の没落を招いたとする逸話は伝説であり、現在では、レンブラントの没落はそれまでの散財やオランダ国の景気の急速な減退による資産運用の失敗、サスキアの死後に雇った家政婦らとの女性関係のもつれからであることが通説である。しかしこの没落がレンブラントに与えた影響は大きく、身内の度重なる死も手伝って、これ以降の画家の自画像作品に代表される、自己分析による精神性を携えた内向的傾向が顕著になった。また1643年から庶民的とされる版画の制作を開始。レンブラントは生涯にわたり作品を手がけ続け、その評価は晩年期にあっても国際的であったとする説が一般的である。

 

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作品名  ダナエ
サイズ  F6


エドガー・ドガ Edgar Degas  

1834-1917 | フランス | 印象派

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印象派を代表する巨匠。線描を重視し、大胆で奇抜な構図や対象の瞬間を鋭く捉える優れた観察眼で、初期には歴史画や肖像画、発展期から円熟期には競馬、舞台、踊り子など都会的なモティーフや、日常生活に見られる浴槽など風俗的モティーフを描く。ドガの強く真実性を感じさせる描写や独特な構図は、写真や日本の浮世絵などの斬新な構図に影響を受けたためと考えられる。エドガー・ドガは伝統的なアカデミー画家らと同様、入念にデッサンを重ね室内で作品を制作する。ガス燈など人工的な光の表現に優れた才能を発揮、印象派が提唱した自然光が射し込む戸外での写生には否定的な立場であり、バティニョール派(後の印象派)の画家らとは明らかに一線を画す存在であった(時には印象派の画家らそのものを否定している)。しかしドガの作品には対象(人間)の運動性に秘める本質が明確に示されており、写実主義の画家ギュスターヴ・クールベに通じる自然的写実性を強く感じさせ、両者は互いに強く影響され合っていた。また一般的にドガの名称は、父が名付けた貴族の名を表す「ド・ガス(De Gas)」を画家自身が嫌い、普通の名前に見えるよう「ドガ(Degas)」と変えたとされているが、近年、この説は捏造であるとの指摘もされている。1834年、パリで裕福な銀行家であった一家に生まれる。1855年に名門エコール・デ・ボサールに入学し、新古典主義の巨匠アングルの弟子で線描の信奉者ルイ・ラモットの師事。ドガのデッサン重視のスタイルは、この年に出会ったアングルからの助言によるものである。翌1856年から三年間、渡伊し叔母ラウラの家に滞在、この時ルネサンス芸術や北方ルネサンス様式に触れ、模写・研究をおこなった。1865年、歴史画でサロン初入選、この頃から都会的なモティーフや風俗的モティーフを描くようになる。また1862年、印象派の先駆者エドゥアール・マネに出会い、数年後(1867-68年頃)、バティニョール派の画家が集うマネのアトリエ近くのカフェ・ゲルボワで同派の画家たちや批評家や文筆家らと交友を重ね、1874年から始まった印象派展にも積極的に参加(第1回目から合計7回参加)するも、アカデミーが印象派を排除する動きを見せたことに反発し、印象派の画家らがサロンに応募することを強く批判する。なお同1874年、銀行家の父が死去し、長男であったドガは莫大な借金をかかえ、返済のために家や財産などを売却している。作品は油彩画のほか、パステルや版画、モノタイプなども手がけており、いずれも優れた作品を残す。晩年は視力の衰えから彫刻を制作。享年83歳。

 

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作品名  バレエエトワール
サイズ  F6


レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci  

1452-1519 | イタリア | 盛期ルネサンス

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ミケランジェロ、ラファエロと並ぶ盛期ルネサンスの三大巨匠の一人。中でもこのレオナルド・ダ・ヴィンチは名実ともに最大の画家として知られる。また画業の他、彫刻家、建築家、科学者としても名を馳せる万能人であった。フィレンツェ西方のヴィンチ村で生まれ、1466年頃ヴェロッキオの工房へ入門、そこで頭角をあわらし、以後は活動拠点をフィレンツェ、ミラノを何度か往復させながらローマへ向かう。晩年はフランソワ一世の招きによりフランスへ渡るものの、67歳で客死。卓越した遠近法の技術も然ることながら、完璧主義者であったレオナルド自身が考案した技法の『スフマート(ぼかし技法)』を用いた作品は、以降の画家に多大な影響を与えた。『受胎告知』『岩窟の聖母』『モナ・リザ』を始めとする数々の名画を残すが、『レダ』や『アンギアーリの戦い(※バロック絵画の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンス版『アンギアリの戦い』はこちら)』などは消失しており、現在目にできるのは、ヴァリアントや素描・画稿模写のみとなっている。

 

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作品名  モナリザ(ラ・ジョコンド)
サイズ  F6


オディロン・ルドン Odilon Redon  

1840-1916 | フランス | 象徴主義

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フランス象徴主義を代表する画家。無意識下の世界を描写しかのような幻想性と夢想性に溢れた独自の世界観による絵画を制作。幻惑的かつ神秘的な絵画表現は同時代の絵画作品とは一線を画し、その強烈な個性は当時の象徴主義の文学者・批評家から一目を置かれていた。画業の初期にはロマン主義的な油彩画のほか、画家自身が≪モノクロームのパステル≫と呼称した木炭とリトグラフによる黒の表現を追及し、眼球、首、怪物など奇怪な作品を手がけるも、1890年頃から突如、明瞭で豊潤かつ個性的な色彩表現を開花させ、神話画、宗教画、静物画などを穏健な世界によって描いた。また画家の手がける神話画、宗教画は極端に物語性が希薄なことも大きな特徴のひとつであるほか、数多くの石版画集を制作している。1840年、アメリカから帰国したばかりの裕福な一家の息子としてボルドーで生まれるものの、生後2ヶ月でボルドー近郊のペイルルバードにあるルドン家が所有していた邸宅へ里子に出される。1855年から同地の画家スタニスラス・ゴランから絵画を学ぶ。その後、建築の勉強をおこない、1861年からパリへと移住し、翌1862年にエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の建築科を受験するも失敗。一時的に故郷ボルドーへと戻り、1864年からエコール・デ・ボザールで歴史画家兼彫刻家のレオン=ジェロームのアトリエに入るものの、同氏のアカデミックな教育に反発し、翌年には帰郷。この頃までに植物学者(生物学者)アルマン・クラヴォー、銅版画家ロドルフ・ブレダン、バルビゾン派の大画家カミーユ・コロー、ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワらから多大な影響を受け、独自の絵画世界を構築していく。1867年に版画で、1868年には油彩画でサロン(官展)に入選。1870年、徴兵のために従軍するが病気のために戦線離脱。1879年、初の石版画集『夢のなかで』を刊行。翌1880年にカミーユ・ファルトと結婚。これ以降、石版画集や単独絵画作品を数多く手がける。1886年、最後の印象派展となる第八回印象派展に参加し、ポール・ゴーガンと出会うほか、長男ジャンが生後6ヶ月で死去、大きな失望を味わう。1889年、次男アリ誕生、三年前の長男ジャンの死も手伝って、かつてない幸福に満たされる。その後、代表作『目を閉じて(閉じられた目、瞑目)』が国家買い上げとなる(1904年)ほか、デュラン=リュエルの画廊で個展を開催するなど画家として活躍の場を広げていく。晩年期には黒の世界を完全に放棄し、柔らかな色彩による絵画を制作した。1916年、パリの自宅で死去。

 

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作品名  アラブの楽人
サイズ  F3


ジョルジュ・ルオー Georges Rouault  

1840-1916 | フランス | 象徴主義

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野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家

1871 パリの家具職人の家庭に生まれる。装飾美術学校の夜学に通う。
1885-90 ステンドグラス職人のもとで見習い。その後、国立美術学校に入学。ギュスターヴ・モローに学び、マティス、マルクらと出会う。ローマ賞に出品をするが全て落選。
1895 モローのすすめで学校を退学する。その後、1901までほぼ定期的に聖書より題材を得た油彩画をフランス芸術家展に出品
1898 モローの作品を所有するモロー美術館の管理(館長)を任される
1902-03 健康を害し療養生活。この頃から1914頃まで青みかかった色調で、娼婦、道化師らを表現主義的に描く画風となる
1903 サロン・ドートンヌを創立し、その後5年続けて出品
1906 ベルト・ヴェイユ画廊で展覧会
1908 結婚
1910 パリのドリュエ画廊で初めての個展
1911 宗教的テーマをてがけていく
1914-18 画商ヴォラールから版画シリーズの注文をうけ、制作
1918 キリストやピエロの顔などを制作。宗教的テーマがますます多くなり、色彩は多色になっていく
1920 ラ・リコルヌ画廊で個展
1922 バルバザンジュ画廊で個展
1924 ドリュエ画廊で大回顧展
1929 「放蕩息子」の舞台装置を手掛ける
1930 ロンドンのセント・ジョージ画廊、ニューヨークのブルンマー画廊、シカゴのアート・クラブ、ミュンヘンのノイマン画廊など初の海外個展
Georges Rouault ジョルジュ・ルオー
この頃よりマチエールはさらに厚くなる。
1937 プティ・パレ美術館での「独立芸術の巨匠展」に42点展示。
1938 ニューヨーク近代美術館で版画作品展
1945 ニューヨーク近代美術館で大回顧展。アッシーの教会のステンドグラスもてがける
1948 ヴェネツッア・ビエンナーレに油彩画26点と版画12点を出品。チューリッヒのクンストハウスで大回顧展。ガレ画廊で『ミセレーレ』が展観
1951 80歳の誕生日を記念して、フランスのカトリック知識人センター主催で「ルオー礼讃」の夕べがひらかれる
1952 ブリュッセルのベルギー王立美術館、アムステルダム市立美術館、パリ国立近代美術館で回顧展
1953 クリーヴランド美術館、NY近代美術館、東京国立博物館、大阪市立美術館などで回顧展
1954 ミラノ近代美術館で回顧展
1958 死去

 

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作品名  人物のいる風景
サイズ  F4


ヨハネス・フェルメール Johannes Vermeer (Jan Vermeer)  

1632-1675 | オランダ | オランダ絵画黄金期

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1632-1675 | オランダ | オランダ絵画黄金期

1632 父レイニール・ヤンスゾーン・フォスと母ディングナム・バルタザールスのあいだの第2子として誕生。10月31日にデルフトの新教会で洗礼を受け、出生届が出された記録がある。
1651 このころから、フェルメール一家はフォス姓を廃し、ファン・デルメールもしくは、その短縮形であるフェルメール姓を名乗るようになったらしい。
1652 父レイニール死亡。10月12日に新教会に埋葬されたとの記録がある。
1653 4月5日にカタリーナ・ボルネスと結婚するも、前日までカタリーナの母マーリアは反対。結婚当初は、父が営んでいた「メーヘレン」という宿屋に新居を構えたようだが、その後、妻の実家に引っ越したとみられる。フェルメールは、この結婚を機にカトリックに改宗したとも言われる。
12月29日、デルフトの聖ルカ組合への加入を認められていることから、このころすでに、いちおう絵の修業を終えていることが推察される。
1655 父の借金の保証人となる際に、フォス姓を抹消し、フェルメール姓に訂正した記録がある。
1656 『取り持ち女』推定制作年。絵にこの年の記入がある。
1662 聖ルカ組合の副会長に選出される。このことから、この時期までにそれなりの地位を得ていたことが推察される。
1663 フランスの貴族バルタザール・ド・モンコニーと邂逅。モンコニーは「アトリエには1点の作品もなかったが、パン屋で1点見つけた。しかし、一人の人物しか描かれていない絵で、私には6ピストルでも高すぎると思えるのに、このパン屋は600リーヴルも支払ったという」と日記に記している。
10月18日、聖ルカ組合の会長に選出される。
1667 ディルク・ファン・ブレイスウェイクが『デルフト年代記』を出版し、その中でフェルメールについてもふれる。
1668 『天文学者』推定制作年。絵にこの年の記入がある。
1669 『地理学者』推定制作年。絵にこの年の記入がある。
10月18日、聖ルカ組合副会長に選出される。
1670 2月13日、母ダイムフナ死亡。「メーヘレン」を相続。
10月18日、聖ルカ組合会長に選出される。
1671 姉ヘールトライト死亡。
1672 5月、ハンス・ヨルダーンスとともに絵画鑑定のためにハーグを訪れる。
1673 妻カタリーナの母マーリアが、自分の息子ウィレム・ボルネスの財産管理をフェルメールに任せる書類を作成。これにより、事実上フェルメールはかなりの財産を手にしたと推察される。
1675 フェルメール死亡。享年43歳。12月15日、旧教会に埋葬したとの記録がある。
フェルメールの死後、妻カタリーナは多額の借金を抱え、生活を維持するために苦労したと推察されている。







 

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作品名  赤い帽子の娘
サイズ  F3